チューリップ教
今年はチューリップに狂った春だった。
さして大きくもない北向の庭の
チューリップ
50個の球根から伸びた
色とりどりのチューリップを
毎朝夕、飽きず崇めた。
写真を撮り
ため息をつき
他人が見ればそう違いもないような
しかし艶やかで美しい
チューリップの写真が
みるみる増えていった。
角度により光の当り具合が変わる
ぼんぼりに光を頂いたように
ぽおっと光るチューリップ
この撮り方は
写真が上手い友人に教わった。
この蛍光色のチューリップに慣れてしまうと
普通のチューリップの絵では物足りない。
朝な夕なに
花を愛で
ため息をつき
シャッターを切る。
しあわせな春だった。
花がうねりだし傾くと
急いで切り花にして
花瓶で楽しんだ。
定年退職後また違う道で
第二の人生を謳歌する人のようだとする
自分の喩えに満足した。
花はハラハラと花びらを落とし
賑やかな季節が終わるのかと
寂しくもあったが
やがて膨らむ紫陽花のつぼみに
新たな楽しみを託して
音を立てて一つパラリ
またパラリと散っていくのは
潔くもあり。
芽吹きの春に
チューリップ教を開いたような私だが
梅雨にはきっと
薄紫の宝石のような
紫陽花の花に魅せられて
朝な夕なに
スマホを構えて
またため息をつくのだ。
紫陽花教。
それもまたしあわせになれる宗教だ。
花は狂おしいまでに
人の心をとらえる。
花があり
花を愛でることができる心のゆとりを
ありがたいものとして感謝しよう。